愛し合えないオヤジ達

土曜日にセンゴに出るのが楽しみだ。

レースではなく、中年のオジサンがオジサンに怒鳴られる景色が見られるからだ。

もちろん本当に怒鳴っているわけではない。

しかし招集所のあたりでは毎回何かが起きる。

腰ゼッケンの位置が違う。

招集時刻を勘違いしている。

最終コールを呼んでもその場にいない。

そんなことで審判のオジサンが困った顔をしている。

言われている方もオジサンである。

言っている方もオジサンである。

私はこの光景を見るのが好きだ。

私は十四歳から競技場へ通っている。

だから1500mをセンゴと呼ぶ。

3000m障害はサンショウである。

110mハードルはトッパーである。

競技場の外では全く通じないが、競技場の中では当たり前に通じる。

競技場とはそういう国である。

長く観察していると、この国には二つの種族がいることに気付く。

一つは審判のオジサンだ。

彼らは昔から陸上をやっている。

中学でも高校でも大学でも陸上部だった。

卒業しても競技場から離れない。

教師になったり、競技場で働いたり、陸協の役員になったりする。

とにかくずっと競技場にいる。

もう一つは走るオジサンだ。

こちらは四十歳を過ぎてから現れる。

会社員だったり営業マンだったりする。

子供が大きくなった頃にランニングを始める。

フルマラソンに出る。

そして気が付くと競技場で5000mを走っている。

この二つの種族は仲が悪いわけではない。

ただ、あまり理解し合えない。

審判のオジサンは、
「なぜこんな簡単なルールが分からないのだろう」
と思っている。

走るオジサンは、
「なぜそんなことで困った顔をするのだろう」
と思っている。

どちらも陸上競技が好きである。

同じように競技場へ来る。

しかし見ているものが違う。

私が面白いと思うのはここからだ。

審判のオジサンは陸上競技をずっと続けてきた。
フィジカルに恵まれ高校時代にはトップ選手だったかもしれない。
だが意外と「なぜ走るのか」を考えたことがない。
魚が水について考えないのと同じである。

一方で走るオジサンは違う。

四十歳を過ぎてからわざわざ競技場へ来る。
誰に頼まれたわけでもない。
速くもない。

金にもならない。

それなのに来る。

だから彼らは考える。

なぜ走るのか。

なぜ苦しいことをするのか。

なぜ休日を使うのか。

競技場のことは何も知らないのに、走る理由だけはやたら詳しいのである。

私はどちらの気持ちも少し分かる。

十四歳から競技場にいるからだ。

しかし本当のところを言うと、私はどちらの種族でもない。

私は体育会系ではない。

レース前にライバルを観察するより、
招集所で何が起きているのかを観察している方が楽しい。

勝負の駆け引きより、
なぜこの競技場という小さな社会が成立しているのかの方が気になる。

だから土曜日もセンゴに出る。

自己ベストを狙っていないわけではない。

しかし本当に楽しみなのは別のところにある。

招集所で困った顔をする審判のオジサン。

腰ゼッケンを付け直している走るオジサン。

その横を何事もなかったように通り過ぎる高校生。

私はたぶんレースよりも、その景色を見に行っている。

三十年近く競技場へ通っているが、未だに競技そのものより競技場の方が面白いのである。

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