4倍の幸せ

2003年、高校三年生の春。

ゴールデンウィークの陸上部の練習で、高校の裏にある大きな公園へ行った。

練習会終わりの帰り際。

陸上部に入ったばかりの一年生の女の子が、雨の中で段ボールを抱えていた。

中には真っ白な子猫がいた。

私は三年生で、陸上部の先輩だった。

少し格好をつけたかった。

「俺が何とかするよ」

そう言ったと思う。

そのとき、一つ下の短距離の後輩が家で猫を飼っていたことを思い出した。

押し付けてしまえ。

捨て猫は、その後輩の家へ行った。

そして十一年後。

私は、その後輩の姉と結婚した。

後輩は義理の弟になった。

妻の実家には、相変わらず何匹もの猫がいた。

五匹だったり、八匹だったり。

義母が保護猫活動をしていたためだ。

その中に、白い猫がいた。

「あのときの猫か!」

私たちは顔を見合わせた。

そして今年のお盆。

新しく来た茶トラの子猫が二匹いるから、孫たちに見せてあげよう。

義母はそう言っていた。

子供たちは喜んだ。

だがそのすぐ横で、二十歳近い老猫が死のうとしていた。

もう薬も食べられない。

吐く。

血便が出る。

義母は泣きながら言った。

「この子は今晩が最後になりそう」

猫がいつもいる場所は、浴室の洗い場だった。

家族が風呂に入り、子供たちが走り、誰かが洗濯物を持って通る。

猫はいつも、そこにいた。

家族を見ていた。

その猫が、身体を引きずりながら浴室へ向かっていた。

腹ばいになって、少しずつ進んでいた。

その晩、義母と二人で焼酎を飲んだ。

義母が言った。

「この子はきっと明日が最後なのよ」

「今まで私は、ちゃんとホストとして、この家であの子を快適に過ごさせてあげられたかしら」

「猫ちゃんは最後、好きな場所に行っちゃうから」

少し黙ってから、

「看取れないことも多いのが、いつも淋しいけど。仕方がないのよ」

と言った。

「猫や犬は、人間の四倍の速度で一生が終わるからさみしい」

私は少し黙った。

「でも、お義母さんの家が快適だったから、四倍幸せだったかもしれませんよ」

翌朝。

猫はまた浴室へ向かっていた。

途中で動けなくなった。

血便が出た。

義母は動物病院へ電話した。

安楽死をさせるほうが幸せなのか。

それとも、自然に任せるほうがいいのか。

そんな話をしていた。

猫は遂にケージに入れられた。

そのときも、猫は浴室のほうをじっと見ていた。

子供たちが猫に駆け寄ってきた。

「どうして吐いているの?」

「どうして猫ちゃんはオムツを履いているの?」

娘が聞いた。

「人間も猫も、最後には何も身体に入れられなくなるんだよ」

「もうすぐ、この世界とお別れするんだよ」

娘は黙った。

私は六歳の娘に言った。

「お婆ちゃんについて行きなさい」

娘は義母と一緒に病院へ向かった。

私は台所に残った。

お婆ちゃんの代わりに料理番をした。

秘伝のタレに漬けた鶏肉を、ひたすら揚げた。

油が鳴る。

庭では、私に猫を押し付けられた義理の弟が、無言で墓穴を掘っていた。

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