以前、フランス人の友人夫婦のホームパーティーに招かれたことがある。
奥さんはフランスの大企業から日本へ来ている、いわゆるキャリアウーマンだ。
しかし、話を聞くと少し印象が違った。
子供の頃は『カードキャプターさくら』で育ち、学生時代には『天空のエスカフローネ』を友人たちに布教し、ドライブをすると「浜崎あゆみ」を諳んじる。
そして今でも日本のゲームが好きだった。
ホームパーティーの途中、彼女は突然言った。
「少しだけいい?」
そう言って始めたのは、フランス語版の『ファイナルファンタジーVII』だった。
大企業の部長と、昔から日本文化に憧れていた少女。
その二人が同じ人の中に存在していることが、なんだか面白かった。
その日の夕食は、彼等が用意してくれたフランス料理だった。
オーブンから出てきたのは、大きな鶏の丸焼き。
その下にはたくさんのポテトが敷かれている。
食卓の真ん中に置かれたその料理は、まさに主役だ。
私は思った。
文化とは面白い。
フランス料理は、素晴らしいものを真ん中に置く。
一方、日本料理には、時々主役が見えないものがある。
例えば出汁。
昆布や鰹節の旨味は、前に出てこない。
料理の後ろに隠れている。
初めて食べる人には、「何が美味しいのか分からない」と感じるかもしれない。
でも、気づいた時には、その存在なしでは物足りなくなる。
そんな違いが文化にはあるのかもしれない。
食事の後、彼女から聞かれた。
「日本で一番おすすめの神社を教えて」
私は迷わず答えた。
「伊勢神宮だね。」
しかし、その先の言葉が出なかった。
なぜ素晴らしいのか。
森が美しいから。
空気が違うから。
神々しいから。
どれも間違ってはいない。
でも、それだけでは伝わらない気がした。
伏見稲荷なら説明できる。
何千本もの赤い鳥居。
写真にも残る景色。
誰が見ても分かる美しさがある。
しかし伊勢神宮は違う。
そこには派手なものがない。
高い塔もない。
豪華な装飾もない。
ただ森があり、玉砂利があり、静かな時間が流れている。
だからこそ説明が難しかった。
その後、彼女は別の話を始めた。
「鏡開きの大きな酒樽ってどこで買えるの?」
酒を飲むためかと思った。
「あのデザインが好きなの。椅子にしたい。」
私は驚いた。
私にとって酒樽は、酒を保管するものだ。
でも彼女には、美しい家具に見えた。
日本人の私が見過ごしていたものを、彼女は見つけていた。
帰る前、娘が言った。
「一緒にマリオカートやりたい。」
せっかくだから、フランス語設定のまま娘同士遊ばせた。
娘はフランス語なんて分からない。
彼女も日本語が完璧なわけではない。
それでも二人は楽しそうに遊んでいた。
帰りの車で、娘が覚えていたフランス語は一つだけだった。
「セ・ボン?」
たぶん意味は分かっていない。
娘は何度も嬉しそうに繰り返していた。
最近、レイモンド・カーヴァーの『大聖堂』を読んだ。
作中に出てくる大聖堂は、人間が神を見上げるための巨大な建築だ。
高くそびえ、荘厳で、そこにあるだけで人を圧倒する。
一方で、伊勢神宮は少し違う。
神を見上げるというより、神のいる森を歩く場所なのかもしれない。
大聖堂は、神へ向かって積み上げられた建築。
伊勢神宮は、自然の中に溶け込んだ建築。
どちらも、人間が大切なものを感じるために作った場所だ。
私は今でも伊勢神宮の良さを完璧には説明できない。
でも、あの日の彼女の酒樽を見る目や、娘が覚えた「セ・ボン?」を思い出す。
本当に大切なものは、説明できるものではないのかもしれない。
ただ、見る人には見えるのかもしれない。

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