最近メルカリにはまっている。
先日も中古でランニングシューズを買った。
アディオスプロ3が3500円だった
すでに後継のアディオスプロ4が出ているので、一世代前のモデルになる。
とはいえ市民ランナーのポイント練習には十分すぎる性能である。
新品ならなかなかの値段だが、中古なら手が届く。
今回の出品者は靴だけではなかった。
ランニングウェアもまとめて出品していた。
しかも見れば分かる。
明らかに大迫傑を意識した装備だった。
シューズもウェアも、揃え方に一貫性がある。
たぶんこの人は本気で速くなりたかったのだと思う。
記録を追いかけていた時期があったのだろう。
だが出品内容を見る限り、どうもランニングをやめたらしい。
靴だけではない。
ウェアも一式なくなっている。
まるで引退届のようだった。
私はその人が何歳なのか知らない。
故障したのかもしれないし、結婚したのかもしれない。
あるいは子供が生まれて走る時間がなくなったのかもしれない。
ただ一つ分かるのは、その人が走っていたということだ。
私はその人の履いていたアディオスプロ3を買った。
届いた靴には少しだけ使用感があった。
けれど、それが嫌ではなかった。
むしろ不思議と気に入った。
若い頃の私はこうではなかった気がする。
新品が好きだった。
誰も触っていないもの。
誰も使っていないもの。
自分だけのもの。
そういうものに価値を感じていた。
しかし四十歳も近くなると、少し考え方が変わる。
誰かが十分に使ったものにも価値が残っていることを知る。
新品の輝きよりも、その物が過ごしてきた時間の方が気になる。
そんなことを考えながら帰宅していると、公園でゴミを拾うおじいさんを見かけた。
若者が飲み散らかした缶ビールや吸い殻を黙々と集めている。
私はその姿を見ながら妙なことを考えた。
世界は案外、若者が使い散らかしたものを老人が拾うことで成り立っているのではないか
若者は消費する。
老人は回収する。
若者は使う。
老人は残った価値を見つける。
もちろん極端な見方だ。
だが少なくとも私は、以前より確実に老人側へ近づいている。
別府大分毎日マラソンの100位以内でもらったバスタオルも、先日メルカリで四千円で売れた。
昔の私なら押し入れにしまっていたかもしれない。
だが今は、それを欲しい誰かのところへ送り出した方が良いと思う。
考えてみれば、私が履いているアディオスプロ3も誰かの青春の名残である。
大迫傑のように走りたかった誰か。
速くなりたかった誰か。
その夢が終わったあとに残った靴を、私は履いている。
新品を買ったのではない。
誰かが使い切れなかった夢の続きを少しだけ安く買ったのである。
日本の街にゴミが少ないのも、もしかしたら同じ理由かもしれない。
この国にはまだ、誰かが捨てたものの中に価値を見つける人がたくさんいる。
公園でゴミを拾う老人も。
中古品を売り買いする中年も。
そういう人たちが、若者の残したものを少しずつ次へ渡している。
年を取るというのは、新しいものを手に入れることではなく、残された価値を見つけるのが上手になることなのかもしれない。

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