俺と骨を挽いて走ろう

今日、川内優輝選手の函館マラソンについての記事を読んだ。

招待選手としては、論外な走りで物足りなさがあったという内容だった。

記事の最後には、本人の悔しさも載っていた。

私は彼とほとんど同じ世代だ。

だから、その言葉が少しだけ胸に刺さった。

若い頃、私たちは速くなることを信じていた。

努力は時計に現れる。

自己ベストは努力の通知表だった。

だから毎朝起きて、誰もいない道を走った。

故障しても、翌日にはまた走った。

速くなることには、それだけの価値があった。

しかし四十代になると、時計は少しずつ別の時間を刻み始める。

昨日まで追いつけた背中が、今日は少し遠い。

脚は動いている。

心も折れていない。

それでも、タイムだけが静かに離れていく。

そんな朝がある。

ふと、老人と海を思い出した。

老人は巨大な魚を釣り上げる。

人生で一番大きな魚だった。

しかし港へ帰るまでに、魚はサメに食われてしまう。

残ったのは骨だけだった。

結果だけ見れば、何も持ち帰れなかった男である。

それでも町の人々は、海の大きさを老人の骨で知る。

私はあの魚を見るたびに、ボストンの雨を思い出す。

2018年ボストンマラソン。

世界中の強豪が崩れる中、一人の日本人が最後まで走り切った。

あの日、川内選手は確かに巨大な魚を釣り上げた。

だからもう、その魚と比べられる必要はない。

骨しか残らない日が来るのは、海へ出続けた者だけだ。

私たち市民ランナーも同じである。

若い頃の自己ベストは少しずつ遠ざかる。

故障が増える。

回復は遅くなる。

それでもスタートラインへ向かう。

誰に頼まれたわけでもないのに。

なぜだろう。

たぶん、走ることが人生になってしまったからだ。

だから川内くん。

もう「恥ずかしい」とは言わなくていい。

「招待選手にふさわしいタイムではなかった」と、自分を責めなくていい。

あなたが背負っているのは、もうゼッケンだけではない。

雨の日に走る理由を探している若者。

故障明けの一歩を踏み出そうとしている市民ランナー。

「もう年だから」と言いかけて、もう一度シューズを結び直す誰か。

あなたは、そんな人たちの少し前を走っている。

港へ帰る船に魚がなくてもいい。

甲板に白い骨だけが横たわっていてもいい。

「あの人は今日も海へ出た。」

それだけで、また誰かが海へ向かう。

私たちは、もう若い頃の自分には追いつけないのかもしれない。

それでも、不思議なことに。

走り続ける人の背中は、速さよりも遠くまで届く。

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