継続史記 #02 明日も元気

大阪で走っていた頃、毎週水曜日になると私の会社のマラソン練習会に来る男がいた。

ゾウさん。
68歳。

メガネをかけ、額は広く、髪は真っ白だ。

大柄で横に広く、いつも会社の作業服で来た。
膝を故障していた。

もう治らない、と本人は言っていた。
それでも水曜日になると、片足を引きずりながら走る。

いつしか誰も、
「膝は大丈夫ですか」
とも言わなくなった。

彼の「ゾウさん」という名前は、20年前にmixiで使っていたハンドルネームが、そのまま練習会で定着したものだ。
だから、彼の上司も「タヌキさん」だ。
2人とも本名で呼ばれることは、ほとんどなかった。

タヌキさんは大企業の部長だ。
2人は年は変わらない。
2人の部署には、マラソン好きが多い。

部下たちが楽しそうに走っているのを見て、タヌキさんもいつの間にか練習会に来るようになった。
どうぶつの森の住人たちは、いつもタヌキさんにワガママを言っていた。

2人は電設関係の会社で、現場の施工管理をしている。
スタジアムや商業施設の照明を作る。
彼らの仕事は今も、夜の甲子園で球児たちを照らしている。

ある水曜日、ゾウさんがダダをこねていた。

「ゾウさん来週の現場やねんけどね」
タヌキさんが言った。予定を変えて現場に行ってほしいらしい。

「タヌキさん。だからダメだって!」
ゾウさんが言った。

「水曜日はこれに行くんだから」
タヌキさんは、しばらくゾウさんを見ていた。

大企業の部長と、その部下。
「もう。こいつには敵いまへんわ」
そんな顔をして、タヌキさんは手を上げた。
「分かった。ワシが何とかしますわ」

次の水曜日。
二人は何事もなかったようにまた練習会に現れた。

練習が終わると、いつもみんなで居酒屋へ向かう。
「明日も元気」という店だ。

京阪電車の高架下にある、決して綺麗とは言えない店だ。

陸上部が毎週通ううちに、すっかり常連になった。
ゾウさんは店員の名前をよく覚えていた。
ある日、揚げ物を見ながら私が言った。
「どうせ冷凍じゃないんですか」
ゾウさんは怒った。
真面目に怒った。
私は25歳くらいのときは、毎週飲んでて時間とお金の無駄だと思っていた。
それでも、30歳を過ぎた頃には、私もここにいた。

店には、陸上部の黒霧の一升瓶がいつもある。

大会が近づくと、みんなでそこに目標を書く。
福知山マラソンでサブスリー。
どこかの大会で自己ベスト更新。
白い修正液の文字が、黒い瓶に少しずつ増えた。

ある日、ゾウさんの番が来た。
ゾウさんは瓶を眺めていた。
しばらく考えていた。

そして、
「明日も元気」
と書いた。

毎週水曜日。
作業服の男が来る。
膝を引きずって走る。
練習が終われば、みんなで飲む。
店員がいる。
仲間がいる。
黒霧の一升瓶がある。

そして、また水曜日が来る。

ここがゾウさんの居場所だ。

コメント

  1. アツコ より:

    前田くんの独特のタッチ、、また、読めることになって
    楽しみが増えました。
    更新、楽しみにしています♡

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