大濠

雨のことは重要ではなかった

朝から大雨だった。

テレビは不要不急の外出を控えろと言っている。

私は地下鉄に乗って大濠公園へ向かった。

高校生の頃は、

「大雨の日に練習しない奴は速くならない。」

そんな言葉が好きだった。

三十年近く走ると、その手の精神論は三年くらいしか走っていない奴らの非常食みたいなものである。

雨はただの雨だ。

晴れはただの晴れだ。

そんなものより、もっと大事なことがある。

イヤホンからPussy Riotの『Power』が流れる。

Is it wrong? I wanna back my power.

私は地下鉄の窓に映る自分を見ながら、サカイくんをどうやって倒すかだけ考えていた。

雨のことなど、その時点で頭になかった。

大濠公園に着くと宝亭には三十人近く集まっていた。

ランナー。

浮浪者。

カミキリムシ。

豪雨なのに、それぞれが今日を生きている。

サカイくんはもう来ていた。

相変わらず爽やかな顔で笑っている。

クラシックの指揮者みたいな顔をしている。

だが走らせると違う。

品行方正な顔の奥から、品の悪いマリリン・マンソンが飛び出してくる。

今日はドレイクくんもいた。

二十五歳。

練習した分だけ速くなる年齢である。

三十二歳。

二十五歳。

私が四十一歳。

なんだか親子みたいな年齢差になってきた。

メニューは300メートルを10本。

そのあと12キロのペース走。

雨はさらに強くなった。

大濠公園から普通の人は消えた。

スターバックスの前は池の水があふれ、公園はただの大濠になっていた。

私達だけが走っていた。

300メートルを50秒ちょいで刻む。

私はずっとサカイくんの背中を見ていた。

去年の福岡マラソンを思い出す。

私はフルマラソンの方が得意だ。

三十キロを過ぎると前へ出る。

「俺が二時間半を切らせてやるよ。」

何度もそう背中で言って前へ出た。

だが彼は横に並ぶ。

風除けになれば楽なのに並ぶ。

前へ出る。

また並ぶ。

勝ちたいのである。

あの時、彼の身体の中には品の悪いマリリン・マンソンが住んでいた。

今日は逆だった。

私がその背中を追う。

ほとんど会話はない。

雨だけが叩きつけてくる。

私は急に分かった。

今日ここへ来た理由は雨じゃない。

根性でもない。

大雨の日に練習したから速くなるなんて、一ミリも思っていない。

私は雨のなかでもくる
若くて強い奴から、自分の肉体を取り返しに来たのである。

サカイくんの背中を見ていると、少しずつ脚が若返る気がした。

ドレイクくんのリズムに合わせていると、肺が昔を思い出す気がした。

もちろん全部勘違いである。

四十一歳にもなって、そんなことを本気で信じている。

だから私は、まだ走っている。

300メートルを走り終えた。

ペース走は一周だけ付き合った。

もう十分だった。

今日は勝った負けたではない。

肉体を少し返してもらった。

帰りの地下鉄で、また『Power』が流れた。

I wanna back my power.

雨のことなど、最後まで重要ではなかった。

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