妻が娘のポケットからヘアバンドを取り出した。
「なにこれ?」
見覚えがあった。
保育園でよく遊んでいるコノハちゃんが頭につけているやつに似ている。
娘に聞く。
「これどうしたん?」
娘は少し笑いながら言った。
「コノハちゃんにもらったの。」
私は興奮した。
ああ!きた。
これはヘルマン・ヘッセだ。
『少年の日の思い出』である。
蝶の標本を盗むあの名作だ。
私は心の中で叫んだ。
エーミール現る。
娘よ、お前はエーミールだったのか!!
私は急に忙しくなった。
返却の場面を想像した。
友情は壊れるのか。
娘は涙ながらに謝るのか。
コノハちゃんは許すのか。
許しても、失われた信頼は戻らないのか。
娘はお前もそういうやつなのか!!
私は勝手に文学になっていた。
ところが調査の結果、話はもっと俗っぽかった。
娘はコノハちゃんに腹を立てていた。
先生に告げ口されたらしい。
その報復として持って帰ってきたらしい。
蝶でもなければ芸術でもない。
ただの六歳児の逆恨みである。
私はがっかりした。
ヘッセ先生も草葉の陰で苦笑いしているだろう。
その後、娘には手紙を書かせた。
相手の親にも謝罪した。
保育園も少し騒がしくなった。
ただ私は頭の中で何度も『少年の日の思い出』を読み返した。
壊れた信頼。
失われた友情。
人は一度犯した過ちから逃げられない。
そんな重たい言葉が頭の中をぐるぐる回った。
数日後。
娘はコノハちゃんとまた遊んでいた。
昨日まで怒っていたらしい。
今日は笑っている。
ヘアバンドのことなど忘れている。
コノハちゃんも忘れている。
忘れていないのは私だけだった。
私は娘のポケットを確認した。
ヘアバンドはなかった。
安心して隣にいた四歳の息子のポケットも確認した。
ダンゴムシが三匹入っていた。
私はそっと蓋を閉じた。

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